

狭山事件の発生から43年目の5月1日、現地調査に来てくださったのは、「狭山事件の真犯人」(発売 星雲社 発行 デジプロ)を書かれた殿岡駿星さんをはじめ、「狭山事件を推理する」というホームページの管理人Oさんなどなど・・・・・
殿岡さんは1968年朝日新聞入社、記者として埼玉県の浦和支局勤務になられたそうですが、「浦和支局に入ったときには事件発生から5年が過ぎ、裁判は東京高裁で行われていた。あるとき、正義感の強い警察官から、『この事件は分からないことだらけの不思議な事件だ。調べてほしい』といわれて関心をもち、調べたが、事件の謎はわからなかった。部落解放同盟が出版した『無実の獄25年 狭山事件写真集』の中に、物置に置かれた被害者の自転車の写真を見て、謎が解けはじめ、また調査をはじめ、石川さんの無実を確信しました。石川さんのえん罪が一日も早く晴れるよう力を尽くしたい」と話してくださいました。
Oさんとネットで出会い、今日の現調に参加したという方は、「狭山事件に関心のある人は大勢います。関心から一歩踏み出せない人たちにどのように訴えていくかということがポイントですね」と話されました。「そうなんですよね。そこが一番難しい所なんですよね。多くの人に伝え、一歩踏み出してもらえるようにするにはどうしたらいいでしょうね?」と私。「短い時間でもテレビで放映されるといいでしょうね」と彼。
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| 荒神様はこの日お祭りで、レコードが 流れていました。43年前と同じように |
普段なら石川は現調のある日は雨が降らないように、と願っているのに、この日ばかりは、雨が降ったらいいのにと思っていたようです(43年前の5月1日は午後4時半ごろから本降りの雨になったそうです。当時の気象記録による)
照りつける日差しのなかで、汗だくの現調となりました。この日の最高気温は31度・・・・・真夏日でした。
現調の皆さんが午後1時過ぎに帰られた後、午後2時過ぎから2人でもう一度現地を回りました。狭山市駅から被害者と出会ったとされるところ(出会い地点)まで「自白」では1時間50分くらいかかったとされていますが、どんなにゆっくり歩いても15分です。「裁判官が実地検証してくれれば」という石川の悲痛な叫びが、裁判官に届いてほしいと思います。
5月2日は朝から雨でした。夕方4時半ごろから石川は、「殺害現場」とされる雑木林(跡地)に行きました。午後6時ごろ農家から荒縄(死体を縛ったとされる)を盗んだとされていますが、同時刻の明るさが知りたかったのだと思います。畑の中に立ってみると、「6時40分くらいまでは100メートルくらい離れていても人の姿は見える」そうです。
5月2日、大阪の友人H・Mさんからメールが届いていました。「私はどこの労働組合にも入っていませんが5月1日はメーデー集会に参加します。昨日も狭山のビラを持って参加しました。ビラを受け取ってくれた女性が「狭山は私の原点やねん。ビラを見てそれを思い出してん」と涙を流されました。普段狭山に関われなくても狭山に思いを持っている人はいるものだと改めて思いました。こんな思いが第3次再審闘争に結びつけたら良いのですが。5・23に向けてちゃんとビラを作らねばと改めて思った次第です」(一部を抜粋) HMさんたちはもう25年以上も狭山のビラを作り、23日にビラまきを続けてくださっています。時には二人くらいでビラまきをされることもあるそうですが、このように長くビラをまき続けることになるとは当時思っても見なかったそうです。
友人のT・Kさんからお手紙を頂きました。「4月25日から3泊4日でソウルへ観光に行ってきました。テレビで放映されている『チャングム』のロケ地を見たかったからです。チャングムについてはもうご存知だと思いますが、賎民から王の主治医までになった女性です。その人物像に惹かれたからです。信念を曲げず、どんな境遇にも負けないでいつも前向きで、明るく生き抜いている姿は、今の一雄さんや、早智子さんにも通じるものがあると思います。第3次再審の闘いで、無実を勝ち取るためにも私が出来ることを地域でやっていきたいと思っています。『差別裁判うちくだこう』を合言葉に共にがんばりましょう」(一部抜粋)と書かれていました。彼女は昨年体調を崩され、仕事はリタイヤしたそうですが、「解放運動は死ぬまで続ける。一雄さんの無実を勝ち取り共に喜べる日が早く来ることを願いながら」・・・・・とソウルからのおみやげを送ってくださいました。
埼玉で歌を歌っている友人がいます。4月28日東京で「ジャーナリストが見た43年目の狭山事件」のシンポジウムにも遠くからきてくださったのですが、2日、採れ採れのトマト、キュウリ等たくさん送ってくださいました。とてもおいしかったです。ありがとうございました。