2014年10月16日のSさん

 年末年始と徳島で過ごした。2015年1月4日夕方狭山に帰り、5日年賀状や、頂いたお手紙の整理をしていた。
一枚のはがきに衝撃が走った。

 それには、「12月14日夫Sが69歳で永眠いたしました」と書かれていた。
ただ茫然とハガキを見つめていた。

 Sさんと親しくお話をさせて頂くようになったのは何時頃からだったろうか。千葉県・東葛住民の会の会員で、2~3年前から高裁前に来て下さるようになった。いつのまにか高裁前アピール行動の常連になっていた。さまざまな市民運動に関わられ、お忙しい日々を過ごされていた。1年ほど前から杖をついて来られていた。そんなSさんに「決して無理しないで。Sさんが応援してくれている気持ちだけでうれしい」と話した。Sさんは「無理をしないと出てこられません。体調がよくないので、いまはいろんな運動にかかわれなくなったけれど、憲法9条をまもること、狭山事件の無罪獲得に全力を注いでいます。これだけは譲れない私の闘いです」と話された。次の高裁アピール(2014年7月31日)の時には、「言葉でうまく伝えることが苦手なので」とお手紙を頂いた。「石川夫妻の訴えに私の胸は張り裂けそうで、涙がこみ上げてくる。私は石川夫妻の訴えに自分を奮い立たせているのです。私の事は心配なさらないでください。狭山裁判証拠開示、河合裁判長の再審開始決定を聞きたいし、完全無罪を勝ち取るまでは私の命を落とすわけにはゆきません(一部抜粋)」と書かれていた。

 高裁前で、彼の命を絞る訴え「石川さんは無実です。ビラを読んでください。署名をお願いします」その声は通りかかる人がたじろぐのではと思うほど鬼気迫っていた。

 8月終わりごろにお手紙を頂いた。「石川さんの不撓不屈の精神が『耐える力』『立ち向かう力』の根源だと学習させて頂いております。私の体調は好転せず、ただ転倒しないように慎重に外出しております。私の気力はご夫妻から得られていることに感謝しています。『無罪獲得まで生きようと思います(一部抜粋)』」と書かれていた

 10月16日、高裁アピールの日、お手紙と「北海道に行ってきました。お土産です」と署名を頂いた。お手紙には「第19次東京高裁前アピールもあと2回、私も石川ご夫妻とその仲間たちと共に訴えたいのですが」と書かれ「私の訴え」として「狭山事件は第3次再審請求から8年、東京高裁第4刑事部河合裁判長は6人目の裁判長です。狭山裁判は多くの国民が注目しています。狭山弁護団の提出した新証拠に基づいて事実調べ、再審開始決定を出して下さい。検察は都合の悪い証拠を『不見当』とした証拠隠しを直ちに止めて下さい。河合裁判長、石川夫妻の訴えの声が届いていますか。まつど S」と書かれていた。私はこのときすぐにお手紙を読まなかった。だから彼の思いをその時は知らなかった。でも、この手紙を読んでいても彼にマイクをお願いしなかったかもしれない。その時、彼はじっと立っていることもつらそうだった。今になってみるとあの時、彼にマイクをお願いしたらよかったと悔やむ。彼は北海道出身で、4~5日北海道に行っていたそうだ。「久しぶりに同窓会に行って友人と会った。友人に署名をしてもらった」と言って署名も持って来て下さったのだ。この時は北海道から帰ってきたばかりだった。

 そうだ。2014年5月22日、衆議院第1議員会館 国際会議室で「SAYAMAみえない手錠をはずすまで」の上映会には、お連れ合いさんと一緒に観に来て下さった。

   
2013年7月23   2014年9月18日


 彼と最後に会ったのは2014年10月31日、狭山市民集会だった
体調が悪いのに最後までデモ行進をされた
彼に「デモの先導車に乗ってもらったのに」というと
「最後まで歩きたかった」と話した彼

 2015年の新しいカレンダーに
 「1月15日に大きなしるしをつけていました」とお連れ合いさんから伺った
1月15日は高裁前アピールの日

彼はとてもテレやで、シャイで、まっすぐな人だった
これまで狭山を共に闘っていた人たちとの多くの別れがあった
彼の思いを大切に
彼の思いと共に闘いぬきたい

「狭山を勝ちとるまでは私の命を落とすわけにはゆきません」と書いたSさん
いっぱいのありがとうと
いっぱいの感謝を

あなたのことを忘れない