2020年6月10日

 

 北朝鮮に拉致された横田めぐみさんのお父さん、滋さん(87歳)が6月5日に亡くなられた。
1977年、下校途中、中学校1年だっためぐみさんが突然行方不明になり、約20年後に北朝鮮による拉致が明らかになった。拉致問題を最優先課題としてきたアベ首相だが、これもいつもの口先だけで、日朝協議は何一つ進んでいない。しかし、家族にすれば、国内問題でなく、まして、国交断絶状態の国に対しては、個人の力は及ぶべくもなく、国に頼らざるを得ない、頭を下げざるを得ない現実にどんなにか歯ぎしりをし、また温かい支援に出会って感謝もしてきたことだろう。
ご両親は、世論を喚起するために1400回もの全国行脚を続けたという。
めぐみさんを探し続け、拉致問題解決のために精いっぱい戦い続けた滋さんの43年の年月を思うと言葉も出ない。

 言葉も文化も習慣も、何もかも違う国に、突然に拉致されためぐみさんや、残されたご家族、また多くの拉致被害者、家族にくらぶべくもないが、私自身は、石川一雄も国家権力によって32年間拉致されたと思っている。
石川一雄の父、富造さんが亡くなったのは87歳。滋さんと同じ年だった。母リイさんは81歳で亡くなった。24歳で息子が逮捕され、両親が生きている間に両親のもとに帰ることはなかった。
「一雄はやってねーす。犯行時刻とされる時間帯には、私たちと食事をし、テレビを見ていた。私たちが無実を一番知っています」と、両親は病に倒れるまで息子の無実を全国に訴え歩いた。石川は、両親が病気になっても、亡くなっても、手を握ることも、葬儀に出ることもかなわなかった。
現地調査に来る人に息子の無実を必死に訴え続けた両親の姿は、私の目に、心に今も焼き付いている。

「狭山を出たことがない」というお母さんが、お父さんと一緒に息子の無実を訴えるために、全国を回った。両親とも文字を知らなかった。それでも舞台に立ち、息子の無実を訴え続けた。闘いの中で、声の届かない無念さと共に、、多くの支援者に支えられ、どんなにか感謝しただろう。それでも息子の手を握ることもかなわなかった。

 世の中は矛盾だらけだし、不正義がまかり通っている。冤罪を晴らすための第一歩は検察が握っている証拠の開示だが、検察は税金で集めた証拠を隠して出さない。国連に証拠開示を求められても聞き流している。

 国家権力のすることは何もかも信用できない。そのような国に住んでいることが不幸だが、しかし、その人たちを選んでいるのは私たち一人ひとりだ。新聞もテレビも毎日同じような内容ばかりだ。今はマイナンバーと個人の口座をひもづけるための法案を考えているという。マイナンバーは個人の情報をいかに国家が把握し、利用するかという制度だ。やがて個人の資産も、病歴も、行動も、何もかも国家権力に管理、監視される日が来るのだろうか。そうさせてはならない。


 6月6日アベノマスクが届いた。小さすぎ、遅すぎ、税金の無駄遣い。このマスクどうしよう。

 6月8日 保護司との面談

 6月8日、青森のNさんからとてもかわいい温度計が届いた。

 6月9日、シスターMISAIさんが畑で作った玉ねぎを送ってくださった。
いっぱい土がついていた。「全能の神の太陽と雨の実りですので、味わって下さいませ」「小さいけれど種から育てました」とのお便りが・・・・種をまき、水をやり、収穫し、箱に詰めて送る。85歳を過ぎた彼女の思いが伝わる。

同封されていたのはMさん手作りのスズランが刺繍されたマスク。

   


 6月10日 愛犬の体調不良のため、9時から動物病院に行ったが、たくさんの人が来ていた。動物たちもストレスで体調を崩しているのかもしれないなぁ。密集をさけるため、外(車の中)での待機となったが、一週間ほど様子を見てくださいとのことで、心配するほどの事はなくホッとした。
帰って来ると、滋賀のヨッチャンから大きなビワが届いた。
おいしかった。

最近特に多くの人からお手紙等を頂く
集会、現調が無くなっている石川を心配してくださっているのだろう

感謝の気持ちでいっぱいだ

狭山の闘いは厳しいが、狭山を闘う人は温かい

まもなく43回目の三者協議だ

青紫色のアジサイの花が咲いた