46年目の10月31日

 2020年10月31日、現調をした。46年前の10月31日、7時30分ごろ、東京拘置所を出たそうだ。刑務官は、無罪判決が出ると思っていたようで、背広、靴、腕時計を持たせ「それ以外の荷物は持ち帰れるように整理しておきなさい」と言われたそうだ。
 東京高裁寺尾裁判長のまさかの有罪判決に石川は「聞きたくない」と叫び、当時の山上主任弁護人は「ペテンだ」と叫び、中山弁護士は「部落問題はどうした」と叫んだそうだ。弁護団から、部落問題について精通している人4人の証人尋問の請求に対して、寺尾裁判長は「部落問題の本を何冊も 読んで勉強しているので証人はいらない」と、部落問題を理解しているかの如く話し、証人申請を却下したそうだが、判決文には部落問題の部の字も出てこなかった事に対する弁護団の怒りの抗議だったのだろう。
 東京拘置所に戻され、それまで死刑囚のいた2階から無期懲役囚の人たちのいる3階に移されたという。
話している途中無念の思いが募ったのだろう、悔し涙がにじんでいた。
 石川に文字を教えてくれた元看守さんは、午後からは見回り等のため、石川に字を教えることはできなかった。死刑確定囚だったSさんは、午後から石川の部屋(独房)によく来て看守さんに勝るとも劣らぬほど、文字だけでなく、裁判の事など、多くの事を教えてくれたという。
はじめて聴く話だった。これまで石川はSさんや、その家族の事を思い、話せなかったそうだ。「Sさんは静かで、穏やかで、博識で、とても良い人だった。何とか文字を覚えられたのもSさんと元看守さんのおかげだ」という石川の話を聴きながら、多くの人に助けられた石川の獄中生活を思った。
3階に移った後、布川事件で無罪を勝ち取った杉山卓男さんたちに出会ったそうだ。

   
出会い地点とされるX字型十字路  荒神様(5月1日はお祭りだった。
今は4分の1位の大きさに))

 久しぶりに長い時間歩いたせいか、途中で疲れて座り込んだ私を見て石川は「安田さんは7月や8月の暑い時も、雨の日、雪の日も現調の案内をしてくれている。感謝しかない」と話したが、本当にそう思う。

現調途中に、コスモス、ムラサキシキブ、バラの花や、名も知らぬ花がいっぱい咲いていた。

   

 10月30日、31日は各地で集会、学習会のとりくみの報告を頂いた。
新潟からは三条新聞に集会や、デモ行進の取り組みが大きく掲載されたと新聞のコピーを送ってくださった。
毎年狭山の職場ストを続けられている全横浜屠場労組から、今回はコロナウイルス蔓延防止のため、職場スト集会は中止になったが「寺尾判決46か年糾弾!第3次再審闘争勝利!」メッセージを組合員に伝えたことや、東京、埼玉、大阪、徳島、九州等、全国各地で狭山集会・デモが取り組まれた事を伺った。

   
映画 「みえない手錠をはずすまで」に出てくるひまわり ススキが揺れていた 

 狭山現地はまた変わっていた。しばらく現地を歩いていなかった石川も驚いていた。
歩きながら「当時(57年前)はここに道があった」「殺害したとされる雑木林は百合の根が沢山採れた」「子どものころ、友達とここでチャンバラごっごをして遊んだ」「11人位いた同級生は今は2人しか残っていない」等、感慨にふけりながら、現調を終えた。

今年もあと2か月となった
12月下旬には45回目の三者協議だ
2021年には何としても再審開始を勝ち取りたい
コロナ禍の中で、思うように動くことはできないが

「何としても」

「何としても」