昨年はコロナ禍により、10か月ほど、家に籠らざるを得ない状況の中で、石川はこれまでの事を振り返る時間を持てたようだ。
新年のメッセージに書いたように、今は振り返ることよりも、ひたすら再審開始をめざして、取り組むことが最重要ではあるが、年を重ねるごとに、目や耳が不自由になっている。これまで、書くこと、読むことが石川にとって大きな喜びであっただけに、そのことが厳しくなってきた今、文字を取り戻し、文字を力に、翼にして、自分自身の冤罪を訴える手紙を書いていたころを思い出すようだった。
1964年、死刑判決が出され、東京拘置所に収監された石川にとって、まさに職を賭して文字を教えてくれた元看守さんの事は頭から離れない。

 石川が虫眼鏡を手に、当時の事を思い出しながら書いたものです。
元看守さんは、私の無実を信じて「無実を訴えるなら、文字を覚えて多くの人に手紙で知らせることだ」と話し、殆ど文字を知らなかった私の独房に午前中入り、マンツーマンで、親切、丁寧に文字を教えてくれた。看守さんの休みの前日には、時には千字以上の漢字書き取りを宿題として私に課したのです。私にとっては、途轍もなく多すぎる宿題でしたが、宿題ができなかったときは、休み明けに出勤してきた看守さんに烈火の如く叱られました。元看守さんは「石川君、私は無実の人を死刑にするわけにはいかない。助かる道は文字を覚えて裁判官や、市民の皆さんに『自分は無実だ』と訴えることだ。泣いて涙を流す前に勉強しなさい」と言われ、私は気持ちを新たにペンを持ち、学習に励んだことを思い出し、目頭が熱くなるのを禁じえませんでした。その後、元看守さんは他の刑務所に転勤されましたが、そこで、部落解放同盟が私の支援団体になったことを知ったそうです。私が書いた多くのメッセージにも目を通してくださっていたそうです。元看守さんが転勤のさい、残っている担当官に、辞典(戦前の物でしたが)を『私専用として貸すように』と引き継いでくださったおかげで、私は、刑が確定し、千葉刑務所に行くまで辞典を手元に置くことができたのです。
仮出獄後、元看守さんの家に何度か伺う中で、拘置所への物品の差し入れは、お連れ合いさん(奥さん)がしてくださっていたことや、差し入れをするときのご苦労などもうかがいました。私にとって命の恩人ともいうべき人で、獄中生活を耐えられたのもお二人のおかげであり、その後、支援に立ち上がってくださった、部落解放同盟や、共闘の皆さん、なにより、お子さんたちからの「石川兄ちゃん、頑張って」の励ましは、私を奮い立たせて、闘う力を頂いたのです。 

事件発生から58年、今もまだ再審請求中であり、厳しい闘いは続いている。獄中にあっても、獄外に出ても、支援者の闘いは続き、温かい思いが届く。
この間、集会や、狭山現調、学習会、座り込みの闘いや、情宣行動、高裁前の闘い、署名活動、マスコミへの意見広告等、あらゆる闘いが続けられてきた。石川は、社会正義を求める多くの人の闘いや、善意の中にある。何より被差別部落に生まれ、差別を跳ね返し、闘い続ける石川の生き方に、共鳴・共感してくださる多くの同胞がいる。
稀有な人生を歩んでいる様に思うが、石川は「これも運命」と淡々としている。
どれほどの葛藤の中を生きてきたのだろうとは思うが、苦しいことばかりではなかったから元気に生きてこられたのだろう。それは支援者皆さん方の力によるものだ。