2004年7月2日、近鉄名張駅を降りると笑顔の出迎えがあった。
車で走ること30分ほどで県境。三重県から奈良県御杖村に入る。そこからもくねくねと道が続く。途中一つの看板が目に飛び込んできた。「狭山事件の公正な裁判を」と書いてあったように思う。胸が熱くなった。
一瞬のことであったが、石川もしっかりと目に焼き付けていた。

 御杖村ははじめての地だが、私たちにとってふるさとのような村である。人口は3000人に満たない標高500メートルの地にある(そうだ)。そこから、毎年マイクロバスで狭山現地調査に来てくださっている。御杖村を午後10時ごろ出発して、翌朝6時ごろ狭山に到着、すぐ真実のコース(石川の事件当日の真実の行動)を回り朝食、その後「自白」させられたコースを回られ、2時間くらい交流をし、そのままマイクロバスで帰られる。御杖村に着くのは午後9時過ぎという強行スケジュールでの現調である。
 1980年に、マイクロバスではじめて狭山現調をされ、4半世紀になられる。現調に来られる前に事前学習、帰られて事後報告と言う形は今も変わらないそうだ。
 
 御杖村・人権啓発推進協議会の「狭山部会」で多くの人が狭山の公平・公正な裁判を求めて活動をしていただいている。狭山部会の木村会長さんは毎年狭山に来られ、自らが現調の案内をしてくださっている。体調を崩された4年前、狭山に来られないとさびしく思っていたが、木村さんの「狭山に行く」という決意が驚くほどの回復力を見せ、退院、そして現調に来られるようになったというお話を伺った。

 御杖村は、私たちが一番訪れたかった村である。これまでのお礼や、来ていただいた皆さんとまた出会いたい。御杖村はどんなところなんだろう。そう思っていた願いがかなった。
 2004年7月2日、「人権を確かめあう」村民の集いに呼んでいただいた。
毎年出会ったT中さん、T本さん、そして木村さん、木村さんがお元気そうでとてもうれしかった。石川が「水も空気もおいしい」と言った。私もそう感じた。なにより人がやさしかった。
 
 集会に先立って持たれた「狭山部会」の人たちとの交流・学習会はこれまでの狭山の取り組みや、これからの闘いを模索する貴重な時間だった。
 
 「村民の集い」には250人の人が来てくださった。山深い地域である。人口の1割近い人が、遠くや、近くから出てきてくださったのだろう。ただただ感謝のみ。
 テーマは「奪われた青春」であった。石川も普段より元気な声で、獄中32年間、奪われ尽くされたのではなく、獄中で文字を取り戻し、多くのことを学んだこと、無実を訴える闘いの日々にあって、多くの出会いがあったこと、多くの子どもさんの手紙に励まされ、頑張れたことなど、32年間の獄中での闘いや、狭山事件の真実、、更なる支援のお願いを熱く語った。夜7時半からの「集い」であったにも関わらず、子どもさんの姿もあった。
 「村民の集い」の資料に“すべての人が生まれてきてよかったと思うむらに”と書かれてあった。
石川もきっと「生きていてよかった。出てきてよかった(出させていただいてよかった)、生まれてきてよかった。出会わせていただいてよかった」と思ったのでないだろうか。闘いの日々の中で、ほんわかと人のぬくもりに、石川も私も包まれた。闘いへの力がわいてくるのを感じた。
 
 集会を終えて満天の星空の下で露天風呂に入った。「星の露天風呂」と書かれていた。
。翌朝、紫陽花がみずみずしく朝日に輝いていた。紫陽花のトンネルを歩いてみた。