「狭山事件の再審を求めるにいがた県民集会」で1週間前に来たばかりの新潟県に、今度は新潟県連女性部総会に呼んでいただきました。総会終了後「怒りを力に変えて」という演題を頂き、話をさせていただきました。

 石川は「21世紀は人権の世紀といわれてきた。しかし、私のえん罪が晴れない限り人権の世紀とはいえない。2001年1月に私は

 『新世紀迎えし一歩踏み出せど 心の闇は何時に除けん』


と歌を詠んだ。私がこの世を去った後も、自分自身の歩み、闘いを知ってもらいたいと思って今も作っている。獄中にいる時、会ったこともない人が「兄ちゃん」「息子」と呼んでくれた。多くの激励の手紙等を頂いた。この人たちに私のがんばりようを見てもらいたい、この人たちを裏切ってはいけない、との思いが私を支え、獄中32年間を闘ってこられた。温かい人情と、差別は許さない、という被差別部落の人たちの闘いに励まされ、闘いの中で被差別部落で生まれたことを誇りに思えた。多くの共闘の仲間の存在に勇気をもらった。私はあと50年生きたい。健康管理のため、狭山にいるときは、5キロのジョギングを続けている。連れ合いに『年(年齢)を自覚しろ』と言われるが私は自覚しない、年齢を自覚したときはおしまいだと思っている。えん罪が晴れたら私のような悲劇を2度と起こさないように最先頭にたって闘いたい」

 また、千葉刑務所で受刑生活を強いられていたころ、部落解放全国女性集会に参加された人が、毎年、集会後千葉刑に立ち寄ってくれたそうですが、その女性たちが塀の外から「石川さんがんばれ」とシュプレヒコールをしてくれた時のことを「女性の声は特に塀の中までよく響き、うれしかった。その人たちの代表の人が面会に来てくれたが、『シュプレヒコールがよく聞こえた。励まされた』ということを自分から言うことは禁じられていたので歌でその気持ちを伝えた。

 『獄壁を超えて届かし吾が連呼 無念の内にも心洗わる』

という歌です」と話しました。面会に行っても発言はさまざまに禁じられていた状況の中で、支援してくださった皆さんのおかげで闘い続けられたんだなあと、私自身も改めて厳しい獄中生活に思いを馳せました。
 
 会場から「私は石川さんが1994年12月に仮出獄で出てきたときに詠んだ

 『えん罪の受刑生活解かれども 故郷に立ちて吾は浦島』

という歌が好きです」と発言がありました。石川は「この歌は仮出獄で出てきた時、皆さんの前で初めて作った歌です。後から思えば『浦島』にたとえたのは間違いでした。私は32年間辛苦の拘禁生活を強いられたのですから。昨年12月、仮出獄から10年ということで

人の世に触れて希望の10年も 浦島太郎は未だ自由なき』

という歌を詠みました。私は東京拘置所で短歌を教えていたという先生(受刑者)に出会い、『歌で自分の思いを訴えたら』とアドバイスを頂き、その先生に何年か教えていただきました。そのおかげで、歌も作れるようになったのです」と話すと、会場から温かい拍手を頂いていました。

 中越地震や、また洪水被害が続き、本当に大変な中で精一杯、日々の闘いを続けられている皆さんが「多くの人がボランティアに来てくださったり、支援してくださった。皆さんに感謝しています」と話されました。今も仮設住宅に入られたりと、不自由で不安な生活を強いられながら、特に被害が大きかった小千谷の特産、紬のネクタイ、バックを女性部から頂いたとき、胸が一杯になりました。皆さん本当にありがとうございました。