12年前の3月11日、浦和地裁「死刑判決47ヵ年糾弾」集会に行く準備をしていた時、どんと突き上げるような大きな地震があった。驚いた。狭山市駅に行くと電車は止まっていた。急遽、車で会場に向かった。信号はみな止まっていた。会場にたどり着いた人たち40人位で集会をした。しばらくして状況がわかってきた。地震、その後の津波、そして最悪の原発事故。

 あの日の事は決して忘れない。今もなお故郷に帰れない人が3万人近くいるという。このような状況にありながら、岸田政権は、原発回帰へとつき進んでいる。原発はひとたび事故があれば、人の力では今は解決できない。絶対に引き返してはならない道だ。この声を上げ続ける。

 13日は、袴田事件で高裁の判断が出る。再審開始以外ないと思うが、滋賀県で起きた「日野町事件」では、2度の再審開始決定が出されたにもかかわらず、大阪高検は、最高裁に特別抗告を申し立てた。検察はいたずらに時間をかけ、裁判を長引かせている。
いくら時間がかかっても、自分たちの腹は痛まないし、やがて検察官は異動があってどこかに代わっていく。
冤罪を闘っている者は、長い年月を闘い続け、その費用も大変なものになり、年を取り、疲れ果ててしまう。
 最近の司法に絶望的になる。しかし、先日、静岡地裁で袴田事件の再審開始決定を出した村山裁判長(現・弁護士)が、裁判所が再審開始決定を出しても検察が不服を申し立てて審理が長期化することを問題視し、「再審開始は裁判所が慎重に検討し、有罪に合理的な疑いがあると判断したからこそ出すもの。検察側は不服があるなら再審公判で主張すべき」と述べ、検察の不服申し立てを禁止する必要性を訴えた(朝日新聞・3月9日)」との記事があった。その通りだ。

 3月11日は、狭山闘争にとっても、絶対許すことができない、忘れることができない日だ。1963年に起きた狭山事件の犯人とされた一雄に1964年3月11日、「死刑判決」が出された。マスコミの被差別部落への差別報道もあいまって、検察の論告求刑、判決文も、差別に満ち満ちており、読むのが苦しくなるほどだ。
第3次再審を申し立て17年。これまでなかなか動かなかったが、昨年8月、狭山弁護団が裁判所に11人の鑑定人尋問と万年筆インクについての鑑定を裁判所に求めてから、一挙に緊迫感が増した。
9月から始まった新たな署名活動も、3月上旬までに48万筆以上が寄せられているという。6か月足らずでこれほどの署名を頂いた。この声に裁判所は真摯に耳を傾けてほしい。
 検察は今年2月末に「鑑定人尋問もインクの鑑定も必要ない」と回答してきた。あまりに不正義、あまりにひどすぎる回答である。検察は、自分たちが正義だと思っているなら、堂々と再審公判で意見をのべたらいいのだ。それも出来ず、卑怯に逃げている。

 「死刑判決」、「確定判決」当時、このような鑑定が出されていたら、果たしてこのような有罪判決が出されていただろうか。また、医学や科学の進歩によって明らかにされた鑑定・真実もある。
これらを調べてほしいと訴えている。再審開始決定は即「無罪」でなく、裁判の中で双方の主張をし、判断するということなのだ。
事件発生から60年。文字を知らなかった一雄が、獄中で文字を取り戻し、取り戻した文字を力にして冤罪を訴え続けた。一雄の人生はひたすら冤罪を晴らす人生だったと言っても過言ではない。
それでも「真実はきっと明らかになる」と信じ、毎日を精いっぱい生きている一雄は今84歳。

 この日、集会前に、「北埼玉地区狭山裁判を支援する会」と「石川一雄さんを支える東部市民の会」が浦和駅西口で街宣行動を行い、18人が参加された。署名も30筆以上集まったそうだ。暖かい一日で良かった。

 多くの人が、狭山支援に立ち上がり、事件発生から60年経った今も闘いの炎は燃えている。
一雄が生きて元気な間に再審開始、無罪判決を勝ち取りたいと闘い続けている。

 集会の中で「100歳まで生きる」と言う一雄に温かい大きな拍手があった。

「狭山事件の再審を実現しよう」に集会の記事があります。

「見えない手錠」をはずし心軽やかに生きられるよう多くの人のご支援を願っている
凍り付いた司法の扉をこじ開けるために大きな世論を巻き起こして頂きたい
皆さんのご支援を心からお願いする