第2回狭山事件の再審を実現しよう 市民のつどい in 関西 2018年1月28日

   

 多くの人のご尽力で大きく盛り上がった「市民のつどい」。関係者、また参加して下さった皆さんへの感謝の心で一杯だ。
この冬一番の寒さで、前日は雪がぱらぱら降ったとかで心配していた。それにも関わらず、会場いっぱいの人が来て下さった。獄友、足利事件の菅家利和さん、布川事件の桜井昌司さん、狭山事件の石川一雄、映画「獄友」監督の金聖雄監督、部落解放同盟・安田聡さん、えん罪救援センター・副代表の笹倉香奈さんの報告等で、3時間半があっという間に過ぎた気がする。

   
野島ミカさんの司会で  山中さんの閉会の挨拶 

 フェイスブック「狭山事件の再審を実現しよう」管理人・野島ミカさんの司会、地元挨拶は部落解放同盟大阪府連・書記次長・安田幸雄さん。狭山弁護団・中北龍太郎弁護士からの弁護団報告後、金さんの進行で獄友のトークセッション。
 菅家さんの無念、怒り、桜井さん、石川の闘いの中で正義を、真実を求める多くの人との出会いで、生き直しができたこと、また、3人とも獄中で両親を亡くした悲しみや切なさがあふれた。雪冤を晴らした桜井さん、菅家さんの「次は狭山と袴田」と、熱い思いを語られるのを参加者全員で共有した集会だった。
 「狭山事件の再審を求める釜ヶ崎住民の会」の山中秀俊さんからの閉会の挨拶。釜ヶ崎からは、東京・日比谷野外音楽堂で毎年5月と10月に開かれている「狭山市民集会」に「狭山勝利号」(バス)で結集して下さっている。夜出発し、1日集会に参加後、また夜を徹して大阪まで帰られるのだ。皆さんお一人おひとりの闘いと組織をあげた闘いが狭山の闘いをつないできた。

 
 左から石川、石川、菅家さん、桜井さん、金監督
大阪のHさん撮影(よく映ってない?)

 サプライズに「1月14日に79歳になった石川さんに」と花束を用意して下さっていた。菅家さん、桜井さんにも花束が贈られた。主催者の温かさが胸にしみる。

 闘病中の宇宙人ヒロコさんと、MANAMIさんに出会えたことがうれしかった。 
 2014年1月、兵庫県で映画「SAYAMAみえない手錠をはずすまで」の上映会があった。兵庫県にお住まいのYUTAKAさんが会場に来て下さった。石川が37年前に東京拘置所からYUTAKAさんに出した手紙を持って。彼女が高校生の時、獄中の石川に手紙を書き、石川から返事をもらったという手紙だ。何度も住所を変わられたそうだが石川から届いた手紙を「宝物」として、大切に持っていて下さったという。「こんにちわ 私の母が、石川さんの話をするときはいつも、とても懐かしそうに、楽しそうに話をするのを聞いてきました」と話しかけてきた青年がいた。お伺いするとYUTAKAさんの息子さんだという。この事もうれしかった。狭山の闘いは厳しい、暗いというイメージがあるような気がするが、違うのだ。権力と対峙し、差別、えん罪を糾弾し続けてきた闘いなので厳しい事は間違いない。しかし、私にとって、狭山の闘いは人との出会いや、夢や希望、そして何より、私自身を解放させてくれた闘いだ。仲間とともに夜を徹して、バスで徳島から東京の狭山集会に行ったことも、生まれて初めてデモ行進をしたことも(ジグザクデモ)。被差別部落出身であることを隠して生きてきた私にとって、私自身を取り戻す闘いであり、正義を取り戻す闘いだった。 

 
 会場からの発言、「私の父は石川さんと同じ年です」と。
2014年兵庫での映画上映会で75歳の石川に金星ネクタイを

 桜井さんが最近作ったという歌「今あなたに伝えたい」と、他2曲を歌われた。「悲しい時も 苦しい時にも 私には いつもあなたがいた 人間っていいですね あなたがくれた ゆめ 希望 愛 ゆめ 希望 そして愛」との歌詞。石川に、私に重ねる。無実でありながら受刑生活を強いられ冤罪を訴え続けた日々、何時も両親が、両親が亡くなった後は、支援者が支えてくれた。人間の温かさに出会った。被差別部落で生まれ、差別から逃げていた私が、狭山や、冤罪や差別を無くそうと闘っている人との出会い、闘いの中で心が解き放たれた。人は変われる 人っていいな~ 人ってすきやな~ と思えた。 「えん罪 狭山事件」に詳細が

 下山、川窪、福江3鑑定は、石川犯人とされた証拠の主軸としてある万年筆は偽物、脅迫状は石川が書いたものでないと科学的に明らかにしたものだ。これらの事実調べをさせることが55年の狭山の闘いの道を拓く。事実調べを勝ちとるために今最大の山場であり、だからこそ、どのようなアクションが必要なのか、大きな世論を起こすためにどうすればいいのか。最後のチャンスを掴みたい。